雨の中、旧中川での練習。
朝8時前。小雨が降る旧中川の土手に設られたカヌー庫に取材班が到着した時、瀬立モニカ選手はすでに車椅子を降りてストレッチの最中でした。
ずっと二人三脚で世界を戦ってきた西明美コーチがすぐ側でサポートをします。
「雨の日でも練習はされるんですか?」
との問いに
「そうですね。基本的には雨でも。水の上に出たら一緒なんで(笑)」
と笑顔で答える瀬立選手。
この前向きな笑顔が瀬立選手の魅力です。
旧中川は江東区を流れる荒川の支流。支流ゆえの水面の穏やかさから各種水上競技の練習が行われている場所です。
瀬立選手の練習場所はパラマウントベッド本社の目の前、本社の窓からもよく見える位置です。そのご縁でパラマウントベッドは2015年よりスポンサー支援を開始しました。
当時瀬立選手は18歳。パラカヌーを初めて2年目のアスリートでした。
瀬立選手は高校1年の時、体育の授業中に怪我をし胸から下の筋肉を動かすことが困難になり、車椅子生活となりました。そこから1年間のリハビリを経て、中学生時代に国体を目指していたカヌーの世界に復帰します。
そして今年、2025年5月。
旧中川で練習をしていた少女がとうとう世界一に!
数々の国際大会を経て、遂にワールドカップ表彰台の頂点に上りました。
6月のある日、開催地ポーランドから帰国して間もない瀬立選手の練習にお邪魔して、ワールドカップのことやこれから目指す未来のことなど、たくさんお話をお伺いすることができました。

金メダルを獲得したポーランド・ポズナンでのパラカヌーワールドカップ。実は大会3日前にパドルが折れるというハプニングが起きていました。
ストレッチを終え、西コーチにテーピングを巻いてもらっているタイミングで、瀬立選手に尋ねてみました。
「ワールドカップ金メダル、おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
「1位でした! というインスタグラムを拝見したのですが、ハッシュタグに・・・」
「ああ、気づいちゃいました?」と瀬立選手。
金メダルの写真とともに、短い優勝の報告。
その下に付けられたハッシュタグには
#困難は最後にまだあった
#試合3日前にパドル折れました
#初めての経験 #スパイスすぎる
#帰国してスーツケース開ければプロテインが爆発してた
#ココアすぎる
の文字が(瀬立モニカ選手のインスタグラムより。投稿はコチラ)。
「さらっと“3日前にパドル折れました”って書いてありましたけど。これって、けっこうなトラブルですよね? 大丈夫だったんですか?」
「いや大変でした。もう必死でパドルを探しまして(笑)。どうにかショップで1つだけ見つかったんです」
「ええ!? そのパドルを使って優勝されたんですか?」
「そうです。まじで危なかったです!」
ここでも笑顔。
「実は大会直前に艇が燃えてしまって」
「え?」
「大変だったんですよ。基本的にヨーロッパで使う艇は向こうに置かせていただいてるんですけど、パリ(2024パリパラリンピック)が終わって置いていたら、燃えてしまって」
ここで隣にいた西明美コーチも「ニュースにもなってまして、艇の工場なんですけど。映像見たらもう山火事みたいになっていまして」とため息をついていました。
「ということは、先月のワールドカップは自分の艇ではなく?」
「そうなんです!」と再び瀬立選手。
「代わりの艇をレンタルして。でも、そこで落ち込んでも仕方ないので、やれることをやりました!」
「その結果が金メダル?」
「そうですね。よかったです(笑)」
瀬立選手と話していると、自然とこちらも笑顔になります。
パドルが折れてもトラブル、本文の投稿ではなくハッシュタグで軽くネタにする。
艇工場の火災には「仕方のないこと」と心を切り替えて自分のパフォーマンスに集中する。
瀬立選手の内面から滲み出るこの前向きな雰囲気が、周りの人を巻き込んで笑顔にする秘密のひとつなのかな? と思いました。


「カヤック」と「ヴァー」、パラカヌー2つの種目
パラカヌーの主要な国際大会はワールドカップと世界選手権、そして4年に一度のパラリンピックです。
金メダルを獲得したのは5月のワールドカップ。次の大きな大会は8月にイタリア・ミラノで開催されるパラカヌー世界選手権です。
パラカヌー国際大会のスプリント種目にはカヤック(KayaK)とヴァー(Va'a)の2つがあります。
ワールドカップでは、瀬立選手は両方の種目に出場しました。
カヤックとヴァーはともに200mを駆け抜けるカヌーのスプリント競技ですが、違いは艇とパドルの形状です。
「カヤック種目 (K)」は浮きのついていない細い船体のカヌーのみ。両側にブレードのついたダブルブレードを使い、左右両側で漕いで推進力を得ます。
「ヴァー種目 (V)」はアウトリガー(浮き)がついたカヌーを、片側のみにブレードがついたパドルで漕ぎます。
ヴァーの方が船体が安定しますが抵抗が大きく、また片側のみを漕ぐので特別なパドリング技術が必要になります。より重い障がいのパラアスリートに対応すべく、東京パラリンピックから追加された種目です。

※一般社団法人パラカヌー連盟「Paracanoe Guide Book」より)

パドルは両側にブレードのついたもので、左右両側で漕いで推進する。

使うパドルは、片方だけで漕ぐシングルブレードタイプと規定されている。
関根選手は共に旧中川で練習をするトップパラアスリート。瀬立モニカ選手は関根選手のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ。
金メダルを獲得したポズナン・パラカヌーワールドカップについて
5月、ポーランドのポズナンで開催されたワールドカップで瀬立選手は両方の種目に出場し、カヤックで4位(KL1クラス)、ヴァーで1位(LV1クラス)を獲得しました。日本パラカヌー史上、国際大会では初の金メダルという快挙でした。
金メダルだったヴァー種目、実は本格的に出場するようになったのは最近だということです。
確かに過去の国際大会の成績を見ても、カヤック種目(KL1クラス)の結果ばかりです。
なぜ今回ヴァーに出場したのか、瀬立選手にお伺いしてみました。
「練習や国内大会では何度かやったことはあるんですが、基本的にカヤック(KL)が主戦場でした。そもそもカヤックでいい成績を取る、というのが目標だったので、別の種目に出る理由がありませんでした。ただ、パリ(2024年パリパラリンピック)が終わって、考えるようになったんです。せっかくこうして支援していただいて貴重な海外遠征をさせてもらえるのに、レースが1本、2本、3本で終わっていいのかな?って。せっかく参加させてもらえるなら、少しでも機会が多い方がいいかなと思いました。試合経験という意味でも場数が多い方がよりフィードバックが得られます」
「なるほど。ちなみに機材は同じなんですか? アウトリガーを付けるだけ、とか」
「いえ、違う艇なんです」
「それぞれ別の機材を準備しないといけないんですね」
「そうです。カヌーだけでなくパドルも違っていたり。そういう意味でも、本当にいろんな支援してくださる方の支えで成り立っている競技なんです」
「なるほど。あらたな挑戦だったわけですね。ということは、今年はじめて本格的に参加した種目で、国際大会、しかもワールドカップで金メダルとっちゃった? ということでしょうか」
「そうなんです。たぶんノーマークに近かったんじゃないでしょうか」
「でも次(8月のミラノ世界選手権)はそうじゃないですね。チャンピオンとして周りから見られることに?」
「そうかもしれません。次が怖いです。カヤックもヴァーも、どっちもいい結果に繋がるように精一杯頑張ります!」
こう書くと、あっさり金メダルが取れてしまったように感じられるかもしれませんが、その快挙の裏には真摯な態度で競技に取り組む瀬立選手の努力の日々がありました。
(後編「世界一になるための努力。練習では相手がいないんで、これで状態を判断するんです」へ続く)
