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2025.08.21 UPDATE!
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世界一になるための努力。
練習では相手がいないんで、これで状態を判断するんです。
パラカヌー、瀬立モニカ選手(後編)

パラカヌーアスリート、瀬立(せりゅう)モニカ選手が、ポーランド・ポズナンで開催された「2025 ICFパラカヌーワールドカップ」で金メダルを獲得しました。帰国直後の瀬立モニカ選手を訪ね、水上練習の様子を見学させていただきました。レポート後編です。(前編はこちら)

健常者のトップアスリートでもすぐにひっくり返ってしまう、カヌーの難しさ。

パラカヌーは、艇の違いによりカヤック(K)とヴァー (V) ※前編参照 という2つの種目があり、さらにそれぞれ障がいの重さによりL1 〜L3という3つのクラスに分けられます。
競技はカヤック(K)のL1クラスならKL1、ヴァー (V)のL3クラスならVL3、のように表記します。

瀬立モニカ選手はカヤックとヴァーどちらの種目も、最も重い障がいのL1クラスに分類されます。
L1クラスは、胴(胸より下)と下半身が全て動かせず、腕と肩の機能だけで漕いで艇を進めます。
「カヌーって実は幅が50センチしかなくって、幅は一番広いところでこれだけ。腰の幅よりちょっと広いだけで、船底もほぼ平らで、とても不安定なんです」と瀬立選手。

桟橋に手をついてバランスを取りながらコーチと話す瀬立モニカ選手
とても細い船体の競技用カヌー。漕がずにコーチと話す時は桟橋に手をついてバランスを取っている。

「普段体幹を鍛えているトップアスリートでも、体験などで最初にカヌーに乗った人は必ずひっくり返ります(笑)」
「そんなにですか?」
「最初はみなさん転覆しますね」
「そんなにバランスを取るのが難しいんですね」
「見ます?」
そう言ってスマートフォンで見せてくれたのは、ラグビー選手がカヌーにトライする動画でした。

「艇に乗って、サポートが手を離した瞬間、ほら! すぐにひっくり返っちゃいます!」
「うわ(笑)、本当ですね。こんなに簡単にくるんと」
「これをどうにかバランスを取りながら漕ぐんですけど・・・。私(瀬立選手)は胸から下が動かせないので、いわゆる体幹でバランスを取る、ということが無理なんです」
「ということは、どうやって沈没しないでバランスを取っているんですか? 練習を見ていたらスッと浮いているので、まさかそこが大変だとは気付きませんでした」
「例えば健常者のカヌーアスリートや、もう少し軽い(使える体の領域が広い)クラスだと筋肉や踏ん張りで上半身を支えてバランスが取れるのですが。L1クラス(胴体を使うことができない)ではそれができないんです。なのでシートがこうやって、背もたれが高くてホールドしてくれるシートを使います。ほとんどの選手は専用に型どった特注のバケットシートを艇に取り付けています」
「ほんとだ、体がぴったりと収まるんですね」
「このシートの元になる体の型を取るんです。制作した工場に『これがモニカのお尻です』という型があるんですよ」
「(笑)」
「これで腰や上半身をがっちりホールドするんです。踏ん張りが効く障がいの軽いクラスではこういうシートは使いません。そして、あとは肩や腕や頭の位置、そしてパドリングですね。それで転覆しないようにバランスを取っています。バランスを取りながら漕いで進む、その技術をいかに磨くか。そもそもフラフラしたり左右で出力が違うと当然タイムに響くので、バランスが取れるようになると、いかに効率よく、左右均等に漕げるかが大事になってきます」

カヌー乗船直前の瀬立モニカ選手。船には専用の背もたれの高いシートが装着されている
カヌーに乗る準備中の瀬立モニカ選手。シートは背もたれが高く、選手の体型を型どった専用のバゲットシート。

え? こんなに速いの?

西コーチのサポートでカヌーに乗り込んだ瀬立選手が水上に漕ぎ出します。
「まずはアップとして0.75kmに設定した上流のポイントまで川を上り、そこで向きを変えてここまで戻ってきます。そのあと、本数やテーマを決めて、全力で漕ぎます」
「分かりました」
「だいたいあの橋の、あのあたりで方向転換します、では」
「分かりました。ではコースの真ん中あたりでカメラを構えて待っていますね」
のんびりそう答えた我々の前からどんどん遠ざかる瀬立選手のカヌー。

え? 速い。
思わずダッシュで河川敷を追いかけます。
両側にブレードがついたパドルを、左右交互、一定のリズムで漕ぐ瀬立選手。
確かにまったくブレず、水面を切り裂くようにカヌーは進んでいきます。

練習中の瀬立モニカ選手
フォームや感覚を確認しながらランを繰り返す。

同じことを繰り返し質を高める。

水上での練習は、取材班から見るとほぼ同じことの繰り返しです。
穏やかな旧中川の、設定されたポイントの間をまっすぐ上ったり下ったり。
西コーチは河川敷を自転車で並走し、大声でタイムや指示を飛ばしています。
一本ごとにカヌーを岸に寄せ、選手とコーチでフォームや機材の状態などを確認し、そしてまた次の一本へ。
ひたすらこの繰り返しでした。
陸上でお話を伺っている時とは打って変わって、お二人ともとても真剣な表情。

黙々と、まさに「黙々と」という表現がピッタリな瀬立選手の練習風景でした。

団地のを背景に、練習をする瀬立モニカ選手
雨の中、団地に囲まれた旧中川を滑るように進む。瀬立選手は中学生の頃からこの旧中川で練習をしている。

瀬立選手の水上練習を見ていると、ピッピッと一定の電子音が聞こえます。
どうやらその音に合わせてパドルを漕いでいるようです。
練習の合間に尋ねてみました。
「このピッピッという音に合わせて漕いでいるように見えました。これは試合本番でも鳴らすものなのですか?」
すると瀬立選手と西コーチ、お二人とも口を揃えて「本番は鳴らしません」とのお答え。
「では、練習の中で、パドルのリズムを体に染み込ませるために鳴らしているんですか?」
「そうですね・・・」と答えた後、瀬立選手がこう続けました。
「このリズムを覚え込ませるというよりは、基準ですね。練習では相手がいないので、何で自分の調子を見るか、自分の状態が今どうなのか、そういう基準が必要になるんです。同じ96(※)に設定したとして、それに対して今日回ってるか回ってないか。こういう絶対的なものと自分の感覚を比較して自分の状態を判断しているんです」
「なるほど、リファレンスですね」
「そうです。あとは、」と、シートの前に貼り付けた黒いウォッチを指差しながらさらにこう続けました。
「これにGPSがついてるので、心拍と時間と距離、そしてスピードを常に見ています。練習は相手がいないので。しかも試合会場みたいに一定感覚のブイとかもないので、こうやって常に状態を確認しながらやるんです」
※1分間に96回という意味。運動や音楽のテンポを表す時に使うbpmのこと

カヌーにGPSウォッチがテープで貼り付けられている
カヌーに取り付けられたGPSウォッチ

より良い状態を保つ努力。

実は練習後のインタビューでも、普段の筋トレやストレッチや日々の過ごし方、あるいは試合前の時間の使い方などについて、似たような話をされていました(次回公開予定『瀬立モニカ選手インタビュー』)。
スタートからゴールまでいかに同じリズムで漕ぎ切るのか。いかに左右同じバランスで水を捉えるのか。いかに同じ感覚で動き続けるのか。いかに自分のパフォーマンスを高め、それを維持するのか。常に考えています、と。
たぶん瀬立選手は、常に自分のパフォーマンスを判断する基準を設定して、“今の自分の状態”との差を数字や感覚で観察し続けているのだと思います。

これらの答えから、瀬立選手が競技や練習、あるいは選手であることに対してどう向き合っているかが垣間見える気がしました。どの質問にもにこやかに答えてくれるのですが、その答えの奥にはいつも、彼女の信念、あるいは決意みたいなものが感じられました。

練習後、艇を陸にあげて西コーチと二人でカヌーを拭いている瀬立選手に聞いてみました。
「毎回拭くんですか?」
「そうですね。ここは川だけど河口に近くて、海水も少し含んだ汽水域なんです。だからちゃんと拭かないと」
艇だけでなく、パドルやスタンドを扱う所作から、とても機材を大事にしている様子が伝わってきました。

人を巻き込む前向きな笑顔。

瀬立選手と話しているとこちらも自然と笑顔になります。
もちろん彼女の笑顔につられて、という面もありますが、言葉や仕草の奥に感じられる強い信念や決意にも、同じだけの力があるように思えます。
瀬立モニカというアスリートが競技や自分の置かれている状態に真摯に向き合い、少しでもより良い状態や結果を目指して努力をし続けていること、その前向きな姿に惹き込まれて、自然とこちらも明るい顔になっていることに気づきました。

「胸から下が動かない、カヌーに重要な背筋腹筋を使えない私にとって、競技に使えるのは上腕二頭筋、上腕三頭筋、三角筋がほぼ全てなんです。だから筋トレは欠かせません。実は筋トレマニアなんです」
そう言ってにこっと笑いながら筋トレの仕草で私たちを笑わせてくれる瀬立選手。
普段にこやかで明るい瀬立選手ですが、その競技活動を支えるために、どれほどの努力をしているのか。こうした言葉や仕草の端々からでも感じ取ることができる取材でした。

練習後カヌーを拭く瀬立モニカ選手